第4章、地租改正と日本農業記事一覧

江戸時代の日本の人口は、約三千万人くらいであった。もちろん江戸時代の初期には「新田開発」があり、食糧の増産が達成されたから人口は急激に増えたが、元禄の時代を境に安定期に入り、約二百年にわたって非常に安定した人口動態であった。江戸・大坂・京都は「三都」と呼ばれるが、当時の江戸の人口は約百万人で、世界最大の都市であった。そして天下の米所(物流の中心地)の大坂(大阪)には五十万人の人が住み、そして中小企...

江戸時代の日本の農村の形はまさに「千差万別」であった。農民の身分も土地持ちの「本百姓(ほんびゃくしょう)」から、土地無し農民である「水呑(みずのみ)」まで様々な身分があった。本百姓は領主にたいして年貢を納める義務を持つ。雑役やその他の労働力を提供する義務を持つ。そしてその代わりに土地の所有を許され、農民の中でも身分の高い存在として認められた。今でも田舎へ行けば「豪農」が立てた大きな屋敷や蔵などが残...

たい肥とは、人糞や馬糞などをワラなどと混ぜ発酵させた肥料のことである。人糞や馬糞など糞尿を使った肥料のことを「下肥(かひ。或いはしもごえ)」とよび、それを液体のままで使ったモノが「液肥」、そしてワラなどと混ぜて積み上げ発酵させたモノが「堆肥(たいひ。あるいは積み肥などとも言う)」である。良いたい肥を作るには良い糞尿がいるから、良い糞尿は高値で取り引きされた。良い糞尿とは一般に、タンパク質の多いモノ...

中世ヨーロッパの都市がそうであったように、日本の都市もかつては糞尿に覆われた汚い街であった。牛や馬は所構わず糞をするし、人間もおまるで用を足した後、その中身を道やドブに投げ捨てた。街の大きな道の真ん中には必ずどぶ川が流れており、それは今で言う下水道であった。当時のヨーロッパの貴婦人達は、必ずコッポリのようなハイヒールを履き、背の高い馬車で街を移動した。日本でも下駄やコッポリのような履き物ができ、貴...

地租改正とはご存じの通り、明治維新時の税制大改革である。それまでの伝統的な(封建)領主への年貢制を改め、国に税金を納める。それまでの伝統的な「物納(現物の何割かを納める)」や「賦役(労働力提供)」を改め金銭で税金を納める。そういう大変革であった。この大改革の大きな役割は、それまでの藩ごと村ごとの自給自足を基礎に余剰物を外部と交換するというかたちの「自給自足風経済体制(つまり自給自足を主とし商品経済...

地租が地価の3%と定められたのは、別に大した根拠はない。単に租税総額が、それまでの年貢を金銭換算した総額を下回らないように設定されただけであった。そしてその租税額を決める元になる地価も、その土地から上がる収益額を平均利率で割ったものと言うことになった。つまりある土地(地価X万円と仮定)で毎年10万円の利益が上がっていたとすると利回りは10/xであるから、これを銀行などでの利回りと比べて同等になるよ...

さてそうやって明治政府は農地(土地)の所有を財産としての分配ではなく、租税徴収責任者を決めるという意味で認定した。すなわちその時にその土地を耕している者を土地の所有者(つまり地租の支払い責任者)とし、その所有者から地租を集めることとした。そしてその一方で、所有者の決まらない土地は国有とした。誰の持ち物か証明できない山林・森林は国有化され、特に優秀な山林は皇室の持ち物となった。もちろんそこから得られ...

明治の初めに行われた地租改正は、図らずも日本に近代的土地所有制度をもたらした。それまでの重層的かつ公的な土地所有(総有)、すなわち「上土は農家のモノ。中土はムラのモノ。底土は天下のモノ」といった三層構造をなしていた所有概念が覆され、そして排他的で独占的な概念である「私有」という形の所有概念が持ち込まれた。「私有」というのはもちろん「私有するモノをどのように処分しても良い」という権利ではない。「『組...

今でこそ日本の農家は米ばかり作っているが、江戸時代から明治の初期まではそんなに米偏重の農業ではなかった。それというのも稲作は水不足や労働力不足、或いは病害虫の発生や台風などといった様々な障害によって非常に不安定な耕作であり、そのリスクを回避しなければ農業は成り立っていけなかったからである。だから当時は稲の品種も多岐に渡り、早稲(わせ:春の早いウチに作付けする稲)より晩稲(おくて:夏前に作付けする稲...

明治30年(1900年)を境に日本国内では米が不足し始めた。それというのも江戸時代には三千万人前後で安定していた日本の人口が、明治維新をきっかけにどんどんどんどん増加していったからであった。そのペースはかなりのもので、維新時には三千万人強しかいなかった人口が、第二次世界大戦が始まるころには既に七千万人以上までに膨れ上がっていた。-----------------------------------...

増え続ける人口に食料を供給するために、明治政府は明治維新以来ヨーロッパの進んだ農法を導入し、各地に農学校を建ててそれを広めようとしていた。当時のヨーロッパは以前にも紹介したとおり、様々な面で進歩的であり、かつまた産業的であった。だがしかしヨーロッパと日本とでは、気候や農業がまるで違う。だから招聘した農学者フェスカは当時の日本農業の特徴を「浅耕・排水不良・少肥」(深く耕さない・排水が良くない・肥料が...

明治農法のキーワードは「畜力耕・乾田化・金肥施肥」だった。つまり1)家畜によって田畑を深く耕し、中耕作物生産や冷害に強い田畑を作る(収量の安定化)。2)水田を乾田化することによって裏作を可能にし、土地の利用率を上げる(利用率アップによる増産)。3)肥料を外部から導入して、反収を上げる(反収増による増産)。ということであった。「畜力耕」にはまず様々な犁の開発と「馬耕(馬による耕うん)」技術の導入が図...

乾田化による二毛作が始まると、今度は地力の低下が問題になり始めた。いくら水田が地力を維持するのに有利だと言っても、年中作物を作っていれば地力は落ちる。ヨーロッパの小麦は地力を大きく奪うが、日本の小麦はそれほど地力を奪わない…なんてことはない。微妙な違いはあってもやっぱり土地のミネラルを大きく奪う。だから農家は肥料を多投しなければならなくなった。土地をとことんまで使い、たくさん生産しようというのだか...

明治農法は、言ってみれば農業の工業的展開であった。明治維新以来増え続ける人口と生活向上による食糧需要増をまかなうために、米を始めとする諸産物の大増産をはかり食糧供給を安定化するという目的で行われた「上からの農業改革」であった。その具体的な内容として考えられたのが、まず土地の利用率を上げて食糧供給力を上げることであった。灌漑排水技術を導入して田んぼを「乾田化」し、表作として稲、裏作として大麦や小麦な...